IMI BASEBALL CLUBの歩み

2000年3月25日土曜日、気温が40度にも昇る午後2時。その日彼らはやって来た。

         「これが野球の硬球だ!」その硬球を私は最前列中央にいた青年に投げた。咄嗟に
受け取った彼は、目を輝かせて真っ白な硬球を眺め、しっかりと右手で何度も何度も握り、
次の青年に手渡した。白い硬球は日焼けした手の中を次々と流れていった。白球が、ポーンと
投げられて、私の手に収まった。 静寂が戻り、青少年達が私の言葉を聞き漏らすまいと、
更に真剣な表情に変わった・・・そして、ミャンマー野球の歴史は始まった。私に、ある
ミャンマー人が野球指導を頼みに来てから2週間後の出来事であった。 

IMIベースボールクラブ代表 岩崎 亨は、1988年より世界保健機関職員として
ニューヨーク、アフリカ事務所勤務を経て、1995年、国連薬物統制計画ミャンマー事務所
次席代表として、ミャンマーに赴任した。JICA専門家として1998年より2001年まで薬物対策
プロジェクトにも従事し、2005年現在まで、ミャンマーに滞在している。2002年に、
それまでの経験を生かして、長期的な、特に薬物防止教育を通じた青少年の健全な育成事業を
展開するために、また、どのような環境においても人種、文化の壁を越えて交流できる真の
国際人育成を目標とする岩崎無双塾を設立した。

         突然の野球指導の依頼に対し、私は、国連時代同様、現場に根付いた人間形成教育
および将来の人材育成を実践することは、必ずミャンマーの若者達の健全な育成につながると
確信し、それを野球指導に見出し快諾した。だが、現在に到る道のりは決して平坦なものでは
なかった。野球道具の問題、野球練習場所…幾多の問題を一つ一つ私は解決して来た。

野球用具に関しては、日本高等学校野球連盟(高野連)、アジア野球連盟、プロ球団、
大学野球、草野球団体から支援して頂いたが、野球グラウンドは、簡単に確保できるものでは
なかった。ミャンマーにおいて無名のスポーツである野球にもかかわらず、ひたむきに頑張る
ミャンマーの若者達の姿勢が評価され、ミャンマー政府スポーツ省より、用地が無償提供され、
内外問わず多くの方々から支援を頂き、選手達と共に汗を流した手作りの球場が2002年5月31日に
首都ヤンゴンに完成した。

あの日、初めて白球を握り締めた青少年達は、驚き、そして確信した。野球に必要な
ものが一つ一つ実現していく。青少年達は、私との交流で、一生懸命努力をすれば、夢を実現
できることを少しずつ肌で感じていった。

         野球の練習は現場での人と人とのぶつかり合いであり、また、文化と文化とのぶつかり
合いでもあった。130年以上の歴史を持つ、いわば日本文化の根幹の一つを形成する日本野球と、
わずか数年のミャンマー野球、この隔たりは、時として大きな壁として目の前に立ちはだかる
事もあった。しかし、それを乗り越えて、この夢を実現しなければ、これからのミャンマーの
青少年達の夢も中途半端になってしまう・・・。たかが野球されど野球。ひとつの白球を想う
幾多の日本の若者達が私を応援しに来てくれた。その彼らの心がミャンマー選手の心を動かし、
国際交流が自然の形で生まれていった。

ミャンマー野球として国際舞台で活躍するには、世界で認められる正式な野球連盟が
必要である。野球指導を始めたときからの目標であった連盟が、2005年2月、正式に発足を
認められ、4月アジア野球連盟に加盟し、そして6月に国際野球連盟に加盟した。

2000年3月、岩崎 亨のもとに集まった25人の若者と共に産声を上げたミャンマー野球は
国際舞台に挑戦できるまでに成長していた。岩崎無双塾の塾生でもある選手全員が、2005年
8月9月の2ヶ月間、日本における強化合宿を経て、同年11月アセアン大会の代表チームに
全員選抜され出場した。5か国中4位と言う結果に終わったものの、初の国際大会における経験は
選手一人一人にとって大きな経験と財産であると確信している。

           IMIベースボールクラブの主力選手全てが、心身ともにミャンマー代表チームに選抜
される能力を有しており、更に若い選手達が切磋琢磨し大きな成長を遂げてくれるよう現在も
努力を続けている。

           岩崎無双塾としてのチームからIMI Baseball Clubと名称が変わった
今でも、その精神は全ての選手達に今も息づいている。